JOURNAL ・ 撮影地の記録
小田代原の貴婦人 ― 朝霧にたたずむ、一本のシラカンバ
栃木・奥日光、標高およそ1,400mの高原に、小田代原という静かな草原があります。戦場ヶ原の西隣、ミズナラの森に囲まれた周囲2〜3kmほどの小さな別天地。その草原のほぼ中央に、シラカンバがただ一本、すっと立っています。人びとが「小田代原の貴婦人」と呼ぶ木です。厚い雲が垂れ込めたこの日の夜明け、草原を朝霧がゆっくりと流れ、貴婦人は霧のヴェールの向こうに静かに浮かび上がりました。
貴婦人と呼ばれる木
草原の真ん中に一本だけ立つシラカンバは、白い幹のすらりとした立ち姿から、いつからか敬意を込めて「貴婦人」と呼ばれるようになりました。推定樹齢はおよそ70年ともいわれ、写真家・宮嶋康彦氏が著書『一本の木』でこの木を世に伝えて以来、全国の写真家が四季を通じて通いつめる存在です。朝霧、草紅葉、霧氷、雪原——同じ木なのに、季節と光でまるで表情が違う。大雨のあとには草原が一時的に水をたたえ、「幻の小田代湖」に貴婦人が浮かぶ年さえあります。
雲の朝にしか出会えない光
この朝は、晴れの予報を裏切って厚い雲が空を覆いました。けれど、盆地状の草原には夜のあいだに冷気が溜まり、湿った大地から立ちのぼる霧が、貴婦人の足もとをゆっくりと流れていきます。青く沈んだ山並み、墨色の雲、霧の白。救急外来の張りつめた夜とはまったく別の、深く静かな時間がそこにありました。晴天の朝霧が「輝き」なら、曇天の朝霧は「重厚」。思いどおりにいかない朝にこそ出会える空気感があることを、教えてくれた一枚です。
霧のヴェールの向こうに、貴婦人はひとり。
雲垂れる夜明けの、深い静けさ。
訪れる方へ ― 見頃
これから訪ねる方のために、季節の見どころをまとめます。
小田代原は2005年、ラムサール条約湿地「奥日光の湿原」の一部として登録された自然の宝庫です。草原はシカの食害から植生を守る柵に囲まれ、入口の回転式ゲートをくぐって入ります。6月は新緑とズミの白い花、ワタスゲの綿毛。夏はホザキシモツケの淡い紅色。例年9月下旬〜10月上旬の草紅葉と、10月下旬にカラマツ林が黄金色に染まる「カラマツの金屏風」が、一年のハイライトです。朝霧は、よく冷え込んだ風の弱い朝に出やすいとされ、初冬には貴婦人が霧氷をまとうこともあります。
アクセス
小田代原を通る道路は、1994年から一般車の乗り入れが禁止されています。赤沼車庫から低公害バス(電気バス)でおよそ12分、運賃は大人500円(2025年実績)。例年4月下旬〜11月末の運行で、特定日には日の出に間に合う早朝便も出ます。歩く場合は、赤沼から木道の自然研究路をたどって35〜40分ほど。東武日光駅からは湯元温泉行きの路線バスで「赤沼」までおよそ1時間です。最新の運行ダイヤは日光自然博物館の公式サイトでご確認ください。
撮影のヒント
定番の撮影地は、小田代原バス停そばの木製の展望デッキ。貴婦人を正面に望めます。朝霧を狙うなら、放射冷却で冷え込んだ朝の、夜明け前後がチャンスです。望遠レンズで霧の層と山並みを圧縮すると、貴婦人の孤高が際立ちます。露出をやや暗めに振ると、霧の質感がしっとりと残ります。デッキや木道の外の草原には決して立ち入らず、混雑する朝は三脚の場所取りを控えめに、譲り合っての撮影を。
あわせて巡りたい
東隣の戦場ヶ原は、木道ハイキングの定番。低公害バスの終点・千手ヶ浜では、例年6月上旬〜中旬にクリンソウの大群生が見頃を迎えます。帰り道には竜頭ノ滝や湯滝、中禅寺湖へ。奥日光は半日で「草原・滝・湖」を巡ることのできる、稀有な高原です。